永田の家具とその時代
創業者永田良助の想いや気概は、確実に受け継がれ、神戸家具における「永田良介商店」の存在は、無くてはならないものになりました。
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永田良助 誕生(岐阜県)5歳より禅寺に預けられる
道具商「永田良助商店」(元町1丁目)を開業
飯島ちわき 誕生(長野県伊那市)洋服の職人として神戸で働く
「永田良助商店(西洋家具)」(三宮町3丁目)移転開業
飯島ちわき トワと結婚
中野善従 誕生(三重県河藝郡/現鈴鹿市)
飯島ちわき 2代目永田良介を襲名(婿入り)
官立神戸高商(神戸高等商業学校、現神戸大学の源流)に家具を納入※※ハコモノ、机、椅子など。真木徳助によるものと思われる。
年代不詳 神戸西洋家具商共動会 新年の集まり
前列左から3人目 若い頃の2代目良介良助 没(享年64歳)
イギリスへカップボード輸出神戸市要鑑に「永田良介 西洋家具 三宮町3丁目営業税37円」の記載あり
酒井新次郎 入社(京都高等工芸高校出身)
良介 神戸区議会議員に就任
良介 神戸西洋家具商組合長に就任
丸尾英一 入社
船舶艤装部門に注力し始める日下部久太郎邸(現舞子ホテル)の内装や家具を手掛ける
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中野善従 入社(京都高等工芸高校出身)
中野善従 養子縁組 みつゑと結婚、永田善従として3代目襲名
酒井新次郎 独立(船舶艤装部門を譲り受ける)内装や家具を手掛けた山邑邸(現ヨドコウ迎賓館)竣工
永田良介商店50年史編纂(焼失、現存せず)
永田良一郎 誕生舟岡省吾邸離れ(ヴォーリズ設計)の内装や家具を手掛ける※
※現在の京都工芸繊維大学に現存するかどうかは不明。
手紙は現存。
手紙には永田建築装飾設計事務所と記載されており、設計も手掛けていたことが分かる。京都で洋家具の展示会に出展※
※宮崎家具店に永田から技術者を派遣、支援する。後に宮崎家具店に木工洋家具部ができる。(みつゑ談)
神戸商工会議所建設時に洋家具組合として家具を納入
善従 ヨーロッパ遊学
大阪堺筋支店開店※
※昭和9年の京阪神電話名簿に大阪堺筋支店の掲載あり。曽木明、松谷冨士男が堺筋支店を任される。
雲仙観光ホテルの内装や家具を手掛ける
昭和10年三宮本店昭和10年頃の店内三宮本店が近隣の火災により類焼。
世界一周旅行(豪華客船エンプレス・オブ・ジャパンに乗船)中の永田夫妻が急遽帰国良介 神戸市会議員に就任
善従 沖縄で戦死(享年47歳)
良一郎 兵役で赴任していた北海道から復員
空襲により三宮本店、大阪堺筋支店焼失4代目良一郎により事業再開
善従 沖縄で戦死(享年47歳)
良一郎 兵役で赴任していた北海道から復員
空襲により三宮本店、大阪堺筋支店焼失 -
良介 没(享年74歳)
良一郎 典子と結婚安田譲 入社(京都市立伏見工業高校出身)
永田耕一 誕生
米国シアトル博覧会(国際見本市)に出展※1、さらに良一郎 アメリカ視察旅行へ※2
木材調査のため台湾へ(農林省からの依頼)※3
兵庫県家具組合連合会会長就任※3※1 家具デザイン部門で、ケヤキのセンターテーブルがデザイン賞を受賞
※2 この時、アメリカ2ヵ所(シカゴ他)に輸出が決まる。
※3 詳細不明天皇行幸のため雲仙観光ホテルの内装や家具を修理
団地協同組合神戸木工センター創設
良介の妻トワ 没
東京日本橋白木屋(現コレド日本橋)に出店※
※郷原重雄が東京日本橋白木屋支店を任される。
東急百貨店渋谷本店に出店
善従の妻みつゑ 没
須崎御用邸(静岡県下田市)に家具を納入
ブラジルに木材調査(通産省からの依頼)
三宮本店店舗南側改築
国立民族学博物館に昭和天皇行幸用家具を納入東急百貨店渋谷本店を終了※
※現在も東京に定期的に出張・出店(丸善内で年1回)し、販売・修理・調整にあたっている。
永田耕一 永田良介商店に入社
良一郎 藍綬褒章受賞
耕一 美生と結婚
永田耕一 5代目襲名
神戸商工会議所新築移転時に家具組合として家具を納入
東急百貨店日本橋店終了
三宮本店改装
良一郎 没(享年76歳)
オーダーメイドのパーソナルチェアの製作開始
旧乾家住宅の内装修理、応接セットの複製品製作
ヨドコウ迎賓館(旧山邑邸)の書斎机・椅子の複製品製作
ジェームス邸の家具修理