永田良介商店

Since 1872

1868年(慶応3)、神戸港開港。
20歳で岐阜県美濃から神戸へ出てきた永田良助は、居留地のイギリス商館で働きはじめました。
やがて、ここで身に付けた英語と西洋的な感性が、若い良助を新たな道へと導きます。

  • 新しい時代に夢を賭けて

    神戸港のメリケン波止場にワイマールの旗が立つと市が開かれる合図。居留地に住む多くの外国人が、神戸での任務を終え故郷に帰る際にこちらで使っていた家財道具を処分するために開催される市でした。すでに道具商を営んでいた永田良助は、その市で売れ残った家具類を一旦預かり、売れると上海銀行などを介して海外の客の元に振り込むという商いもしていました。神戸に住む外国人の間で良助は信頼に足る商売人という評判だったのでしょう。
    1872年(明治5)に道具商「永田良助商店」を神戸元町の裏通りに開業。店の看板には「西洋家具 いすていふる 修理」とありましたが、本格的に西洋家具の製作を売り物にしたのは、開業から5年後、工場の機能を整えた明治10年頃のことでした。 1883年(明治16)には三宮町3丁目の家具店4軒が並ぶ長屋に移転し、本格的な店を構え、西洋家具を製作する「永田良助商店」を開業しました。
    神戸家具の黎明期ともいえるこの頃、ノミとカンナで和船を造る船大工の技術が家具製作に通じるとされ、四国や播州赤穂の船大工が重宝されました。良助は妻・タネの播州赤穂の親戚の船大工たちを家具製作の職人として集めました。
    これらの永田の職人たちは、買い取った家具を再生して販売するにあたり、ばらしては組み立てて工程を研究し、面取りや彫刻を真似て技を磨いていきました。地道な努力は、いつの間にか本物をしのぐ良質の永田の家具へと結実。さらに永田良助商店では、家財道具全般を扱っていたことから、欧風の室内装飾の知識も蓄積されていきました。
    やがて良助は自分の跡取りとして、信州長野出身で神戸の洋服店で職人をしていた飯島ちわきを見込み、1902年(明治35)、養女のトワ(タネの姪)の伴侶に迎えました。

    明治時代の居留地前海岸とメリケン波止場
    明治15年刊行「豪商神兵湊の魁」より西洋イスティフル家具製造所
    戦前まで使用していたロゴマーク(2代目良介のデザイン)
  • 永田良介商店の礎を築く

    1906年(明治39)に永田良介商店の前で撮影された集合写真には、イギリスに送られるカップボードや小椅子が写っています。当時ヨーロッパでもてはやされた多様な折衷様式で細部までつくり込まれた意匠が見られ、日本製の西洋家具が本場で信頼されるまでのレベルに達していたことが分かります。
    飯島ちわきは2代目永田良介となり、「永田良介商店」の経営者として初代が見込んだ才能を開花させていきます。 時代は大正に入り、造船ブームに目をつけた良介は、ベッドや鏡台だけでなく、カーテンや絨毯にまで至る洋船の内装業務を取り込むことに成功しました。
    4代目良一郎が祖母から聞かされた思い出話の中には、「おじいさん(良介)は、ヨーロッパの活動写真がくると雇っていた中国人の職人に弁当を持たせ、何回も観て家具を頭にたたきこんでこいと映画館に通わせた」とあり、良介が日頃から本物を学びとろうとした姿勢がうかがえます。
    さらに、それまでの家具製作とは異なる船舶装飾への進出に先立って、当時、官立東京高等工芸学校(現千葉大学)と並んで日本で最先端の図案教育を行っていた官立京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)に赴き、人材を求めました。他に京都の第二工業高校(現伏見工業高校)卒業生なども積極的に採用し、入社後は外地留学させるなど常に感性を磨くことに注力していました。
    このように技術と経営の両面で永田良介商店の礎を築いた良介は、神戸区会議員や神戸市西洋家具商組合長を務めたのち、1938年(昭和13)神戸市会議員となり、神戸の街の発展にも尽力しました。

    年代不詳 永田良介商店第2工場(現在地に隣接)
    明治39年 イギリスへ送るカップボードと一緒に
  • デザインの追求

    後に永田良介商店の3代目となる中野善従も、良介が京都高等工芸高校で獲得した人材でした。1923年(大正12)に良介の養女のみつゑ(トワの姪)の伴侶となり、永田の3代目を襲名。1930年(昭和5)には良介から3万円を授けられ、ヨーロッパへと旅立ちます。当時は一般人の私費でのヨーロッパ旅行など滅多にあることではなかったので、新聞記事にもなりました。その内容からすると、シベリア鉄道で終着駅のベルリンまで行き、美術・建築に関する革新的な教育機関だったドイツのバウハウスに赴き、さらに予定を3ヵ月半から半年に延ばしてイギリスやフランスなどヨーロッパ各地を周り、古典芸術を堪能したとのことでした。
    ヨーロッパ遊学の成果の一つが、木目を生かして墨の色調に仕上げる「墨ぼかし」の技法です。現在の永田のオリジナルスタイルは、善従の優れた感性とデザインへのどん欲な探究心が創り上げたといっても過言ではないでしょう。
    雲仙観光ホテルや旧乾家住宅のほか、旧舟岡邸(現京都工芸繊維大学構内/ウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計)など名家の私邸や名立たる施設における内装や家具類を手掛けていきました。しかし、1941年(昭和16)に太平洋戦争が勃発。終戦の年に47歳で徴集された善従は、沖縄首里城の陣地造成に駆り出され、戦死。また同年、大阪の空襲で大阪堺筋支店を、神戸の空襲で本店や工場を焼失してしまいます。

    昭和5年 善従渡欧の記事
    舟岡省吾邸の照明デザイン
  • 復興、そして成長へ

    創業から約40年、戦後は何もないところからの出発でした。ただ、戦前に善従が育てた従業員たちが復員し、再び永田良介商店のもとに帰ってきてくれました。
    善従の長男・良一郎も20歳で北海道から復員。同じ戦争体験を持つ従業員たちに支えられながら、母・みつゑを助けて家業の再興を図ります。
    戦前からのお客様の家具修理などでしのぐ中、1947年(昭和22)の天皇行幸では、戦災でお泊りいただく施設がないことから宿泊されることになった神戸一中(現兵庫県立神戸高校)に内装品を納めました。さらに神戸港で荷揚げされる物資を従業員たちが売りさばき、店の再開資金に充ててくれました。
    1948年(昭和23)、戦前と同じ三宮町に店を再開すると、日本の復興とともに活気を取り戻していきました。

    戦後の三宮本店
    左:昭和36年 年賀状(園部のイラスト)
    右:戦後、雑貨を扱うようになり用意した包装紙(みつゑと園部のデザイン)

    1966年(昭和41)に東京日本橋の白木屋(元東急百貨店日本橋店)に神戸を代表する他の専門店と共に出店、続いて1968年(昭和43)には東京2号店にあたる東急百貨店渋谷本店にも出店し、東京への本格的な進出を果たします。増え続ける東京の顧客対応のための出店でした。
    1988年(昭和63)、良一郎の長男・耕一が5代目を襲名。昭和から平成へ年号が代わったことに呼応するように、新たな時代の永田良介商店の経営を目指しました。
    一つは、お客様にいつも自信を持ってお伝えしている「永田良介商店の家具は、100年使っていただけます」という言葉の証明です。創業の代から引き継がれてきた“修理を含めて永田良介商店の家具”という信条をこれからも守り続けるために、最適な修理とリフォームに一層力を注いでいます。また、座る快適性を徹底的に追求した、ひとりのためのオーダーメイドチェアの製作を開始。重厚感のあるつくりと長い時間座っても疲れない使い心地は、永田の技を結集して生まれました。
    長い歳月をかけて積み重ねてきた技とデザインを継承しつつ、その時代の日本人の生活に即した、永田ならではの西洋家具をこれからもつくり続けます。

    昭和41年 東京日本橋 白木屋開店当時の店内
    昭和51年 東京日本橋 東急百貨店店舗の記事
    左:昭和52年 現三宮本店
    右:三宮本店改装記事が一面に
    平成28年 現三宮本店店内

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